『原始林にねむるマヤ文明のなぞ』
少年少女世界の大探検シリーズのなかの一冊、学校の図書館に並んでいそうな本。日本では1976年の初版。メソアメリカはひじょうに遺跡が多くて、調べているともう混乱してくるのですが、少年少女向けのこの本…の解説…がひじょうにコンパクトでわかりやすかった。『解説』の部分をそっくり引用します。メソアメリカについては、これだけで十分かも。
著者・ジョン・ロイド・スティーヴンズ
スティーヴンズは1839年、アメリカ合衆国の外交官として中央アメリカにわたり、外交官としての仕事も果たしたが、主な目的は探検だった。この時、画家のフレデリック・キャザウッドが同行し、多くのスケッチと緻密な作品を残した。
解説――矢代堅二
十五世紀の終わりに発見され、十六世紀の初めに、近代武器をもって侵攻してきたスペイン人に征服された新大陸の中央部には、当時の世界(旧大陸)には想像もできない独自で高度な文化をもった二大文明圏がありました。
◎ ひとつは、メキシコ南部からグアテマラ、ホンジュラスにわたって点在し、およそ二千年の間栄えた何百という石造の神殿や都市が、数多くの謎を秘めたまま捨てられて、いつしか原始林の中に埋もれていった『マヤ文明』――。
◎ もうひとつは、現在のメキシコ市の中心部に、かってあった壮麗な湖上の都で「新大陸のベネチアだ」と征服者たちを驚嘆させ、建設されてわずか二百年たらずで、跡形もなく破壊されてしまった新興の『アステカ文明』――の二つです。
アステカ人は、自らはメシカと名のっていました。彼らが湖上の都に居を定めるまでは、北西方のアストランとよぶ洞穴地帯に住む好戦的な狩猟民族で、メキシコの先住民だちからは、「北の蛮族」と恐れられていました。
十三世紀の初め、部族神のウィツィロポチトリ(太陽と戦いの神)のお告げで「岩山のサボテンの木の上で、嬉々として蛇を食う鷲のいる土地」を求めて、メキシコの中央盆地を南下し、お告げ通りの光景を発見したのが、湖上に浮かぶ岩山のテノチティトランでした。
この「サボテンの上に止まって蛇を食う鵞」は、今日メキシコ共和国の国章となっており、国名もこの部族の名から由来しています。
湖上の岩山に部族神の神殿をつくって住みついたアステカの人は、およそ二百年の間に、近隣の先住民を征服したり同盟を結んだりして強大となって行く間に、それらの文化を吸収し、湖を埋めたて白亜の大都市を建設し、スペイン軍がやってきたときは、まさにアステカ文明の極盛を誇っていました。
人口は約三十万ちかくあって、メキシコのほとんどの都市、三百七十一市が朝貢していたといいます。
それが無惨にも根こそぎ破壊され、知識人であった貴族たちのほとんどは殺され、文化資料はやかれて、壮麗をきわめたアステカの文明は地上からきえていきました。
その点、マヤ文明の消滅は、実に複雑な種々の謎を秘めています。
彼らは、いまから数百年前、数学のいちばん発達していたインドよりも早くから「0」を発見し、二十進法の算数を編みだし、天体の運行を肉眼で観測して、それを独得の絵文字(神聖文字)で各種の精密な暦をつくり、時の経過を石に刻み(時の石碑)、鉄器も車輪も起重機も知らないで、大きな石をきりだし、それにふかく鋭い彫刻をほどこしたり、白しっくい(…西洋では漆喰は消石灰・砂・水を混ぜて練り上げたもの…)で装飾した大神殿をピラミッド状につくり、それを中心に都市を造り、上下水道や舗装道路を造り上げた民族ですが、このマヤ人は、そもそもどこからきたのか、はっきりしていません。
マヤ人は日本人と同じアジアのモンゴロイド系なので、氷河時代にベーリング海峡をわたって南下してきた説、太平洋をカヌーで渡ってきた説――それも南極大陸からとか東南アジアからとか、太平洋に沈んだアトランティスからとか、はては「宇宙の惑星からやってきた遊星人の子孫」だという考古学者の仮説まであります。
何故、これほど学者たちを混乱させるかというと、学問上では居住不可能な高温多湿の原始林の中に、想像を絶する高度な文明を造り上げる半面、農耕の方法は、石器時代のままで何ひとつ改良発展がない、といった矛盾した面があること、つまり学問上の常識のワクをこえた民族であるからですし、またマヤの歴史や文化の発展と衰亡の過程を知る「資料の古文書」が、ほとんどスペイン人に悪魔の書として図書館ごと焼き払われてしまったからです。
ですから、マヤ学の父J・L・スティーブンズから始ったマヤ研究は、およそ百四十年近くたっていますが、神聖文字の解読はまだ三分の一くらいで、すべてが解明するのにはあと五十年はかかるといわれています。
現在知られているマヤ文明の一端は、メキシコ湾岸のタバスコ地方の湿潤地に、おそらく中央アメリカで最初におこったオルメカ文明の影響を受けて、三つの地域にマヤ文明が発生、発展したのであろう、ということです。
三つの地域というのは、一応、
母なる大河といわれるウスマッシタ河流域に点在する「聖なる都」パレンケ、ヤシュチラン、カミナルフューなどの遺跡のあるグアテマラおよびチャパス高地と、
原始林の中にピラミッド型神殿の林立するチカルやワシャクトゥンの遺跡で有名なペテン低地地方、
それに魔法の神殿や総督の家、尼僧院で有名なウシュマル、天文台や暦の神殿、戦士の宮殿で名高いチチェン・イッツアの遺跡と、ほんの最近(一九四一年)発見され、目下何ヵ国もの考古学者たちによって発掘され復原を急いでいる、前後三千年の歴史と広大な都市群をもつジビルチャルトゥンの大遺跡のあるユカタン半島など、です。
このジビルチャルトゥンの大遺跡は従来のマヤ学に重大な変更をおこさせました。
それまでのマヤ文明は、紀元前二、三世紀頃から始ったとされていましたが、新発見の大遺跡は、紀元前十世紀頃からマヤの神殿をつくっていたらしいのです。
しかも、ほとんどのマヤの遺跡がはっきりとした理由もなく、突然ある時期、住民全部が立ち去って打ちすてられ、たちまち原始林の樹海に埋もれて行く――というのが普通でしたが、ジビルチャルトゥンは三千年間、一度も打ち捨てられた痕跡がなく、スペインの植民地時代まで住民がいて、カトリックの教会まで廃墟になって残っているのです。
ですが、いつ、どうして打ち捨てられて、人々に忘れ去られてしまったのか、そして住民たちはいったいどこへ消えたのか、まだわかっていません。
現在メキシコ南部の密林の中に、約六百人ほどのラカンドン族といわれる人々がいます。
彼らは、石器時代を思わせる生活をしていて、一部の学者にはこれこそ、純粋なマヤの子孫だ、といわれていますが、マヤの歴史も暦も神々も知りません。
栄光の古代マヤ文明のすべてをとく鍵は、伝説として語りつがれている「ユカタンの密林の洞窟にかくされた黄金の図書館」を、見つけることかも知れません。
その図書館には、黄金の延板でつくられた古文書が、いっぱいつまっているということです。
(一九三六年、メキシコ湾に近いユカタンに不時着した一飛行士が、その図書館をみたということですが、あらためて探検隊をくりだした時には、風景が一変していて、二度とみつけだせないままになっている、ということです。
ユカタンの原始林は、生長が早く、ほんのわずかな間につる草や灌木が風景を変えてしまうそうです)
ところで、十六世紀のスペイン人が、直に「その人の立場になって考えてみる」というキリスト教の教えを守っていたら、世界史最大のマヤ文明の謎は、簡単に解けえたかも知れません。逆に考えますと、謎のマヤ文明は、人が人を攻め争う無意味さ、大損失を教えているように思えます。